LOGINデート当日はよく晴れていた。
五月の終わり。 少しだけ風が暖かい。 待ち合わせ場所へ向かいながら、私は何度も服の裾を直していた。 落ち着かない。 こんなの久しぶりだ。 付き合い始めた頃みたいで。 少しだけ恥ずかしい。 駅前の時計を見る。 約束の時間まであと五分。 その時だった。 「真琴」 聞き慣れた声。 振り返る。 悠斗がいた。 私服姿。 仕事帰りのスーツではない悠斗を見るのも、なんだか久しぶりな気がする。森下さんが来ることが決まってから、私は少しそわそわしていた。 来週の土曜日。 午後。 お菓子は森下さんが持ってきてくれるらしい。 私はお茶を用意すればいい。 それだけのことなのに、頭の中では部屋の片づけリストが勝手に増えていく。 段ボールを全部潰す。 床を拭く。 台所を磨く。 洗面所も見られるかもしれない。 トイレも掃除しなければ。 クッションカバーは洗うべきか。 そこまで考えて、私は丸いテーブルに突っ伏した。「……やりすぎ」 誰もいない部屋で呟く。 森下さんは、ホテルのチェック係ではない。 花瓶監査見習いではあるかもしれないけれど、それも冗談だ。 私は部屋を見回した。 薄い青のカーテン。 窓辺のクラゲとミモザ。 水色の花瓶。 丸いテーブル。 二脚の椅子。 壁際に残った段ボールが二つ。 床に積んだ本が少し。 完璧ではない。 でも、暮らしている部屋だ。 森下さんに見せたいと思ったのは、この部屋が完璧になったからではない。 私がここで暮らしていることを、見てもらいたいと思ったからだ。◇ 私はノートを開いて、やることを書き出した。『床に出ている本を箱か棚へ』『テーブルを拭く』『お茶を買う』『無理に全部やらない』 最後の一行に、丸をつける。 無理に全部やらない。 これが一番大事かもしれない。 以前の私なら、人を呼ぶ前に完璧にしようとした。 料理も多めに用意して、相手の好き嫌いを気にして、掃除も念入りにして、当日には疲れた顔で笑っていたかもしれない。 楽しいはずの来客を、自分で義務に変えていた。 でも、今回はそうしたくない。
花瓶を買ってから、朝の景色が少し変わった。 目が覚めてカーテンを開ける。 薄い青の布が左右に寄る。 窓辺に置いた水色の花瓶に、朝の光が当たる。 ミモザは少しずつ小さく乾き始めていたけれど、それでも黄色い花は部屋の中でやわらかく浮かんでいた。 クラゲのキーホルダーは、その隣で静かに揺れている。 水色と黄色。 過去と今日。 そう言葉にすると少し大げさだけれど、私の部屋にはその両方が並んでいた。 私はキッチンで水を汲み、花瓶の水を替える。 茎の先を少し切る。 花屋さんに言われたことを思い出しながら、丁寧に戻す。 前なら、こういう手間を面倒だと思ったかもしれない。 花を飾るなら、ちゃんと世話をしなければいけない。 できないなら買わない方がいい。 そんなふうに考えて、始める前から自分を止めていた。 でも今は、少し違う。 できる範囲でいい。 花がしおれたら、それはそれで終わりまで見ればいい。 完璧に保つことだけが、大切にすることではないのかもしれない。◇ 朝食はトーストと目玉焼きにした。 料理本に、卵は弱火で焼くと失敗しにくいと書いてあったので試してみる。 黄身は少し端に寄った。 白身もきれいな丸にはならなかった。 それでも、前より焦げていない。 白い器にヨーグルトを入れ、グレーのマグカップに紅茶を注ぐ。 丸いテーブルに並べると、ちゃんと一人分の朝食に見えた。 向かいの椅子には、昨日読みかけのエッセイが置いてある。 空席ではなく、途中の本の場所。 私は「いただきます」と手を合わせた。 目玉焼きに少し醤油をかける。 食べながら、窓辺の花瓶を見る。 朝の光の中では、夜よりも水色が淡く見える。 この部屋に似合う。 そう思う。
部屋に帰ると、私はまず花瓶を紙袋から出した。 薄い水色の小さな花瓶。 店で見た時より、部屋の光の中では少し柔らかく見える。 私は窓辺に置いてみた。 薄い青のカーテンの前。 クラゲのキーホルダーの隣。 そこに置くと、花瓶は思ったより自然に馴染んだ。「……いい」 小さく呟く。 誰かに見せる前に、まず自分でそう思えた。 グラスに挿していたミモザをそっと抜き、茎を少し切る。 水を入れた花瓶に挿すと、黄色い小さな花がふわりと広がった。 水色の花瓶と、黄色い花。 薄い青のカーテン。 淡い水色のクラゲ。 窓辺に並ぶそれらを見ていると、胸の奥が静かに満たされていく。 完璧な部屋ではない。 でも、私が選んだものが少しずつ増えている。 そのことが、何より嬉しかった。 スマホを手に取り、写真を撮った。 角度を変えて、もう一枚。 花瓶がよく見えるように、クラゲが少しだけ写るように。 撮った写真を見て、私は少し迷った。 佐伯さんに送る。 森下さんにも送る。 千尋にも、きっと見せたい。 でも、その前に、私は写真をしばらく自分だけで眺めた。 誰かに褒めてもらう前から、私はこれが好きだと思っている。 その順番を、間違えたくなかった。 しばらくしてから、まず佐伯さんに送った。『花瓶監査お願いします』 すぐに既読がついた。『合格』 短い。 あまりにも短い。 続けてもう一通来る。『ただし花瓶の下に何か敷くとさらに良し』 私は笑った。『厳しい』『監査なので』 次に森下さんへ送る。『花瓶買いました』 森下さんからは、少し長めの返事が来た。
朝倉さんは、手に持っていた紙の束を少し上げた。「次の展示の打ち合わせで来ていました」「あ、これ」 私は掲示板のチラシを指した。「さっき見ました」「もう貼ってありましたか」「はい。来月なんですね」「はい。今度は器の作家さんと一緒にやる展示です」「器と写真」「暮らしの中の道具と、それが置かれている時間みたいなものを撮れたらと思っていて」 朝倉さんの言葉を聞きながら、私は紙袋を持つ手に少し力が入った。 花瓶。 今日買ったばかりの、薄い水色の花瓶。 暮らしの中の道具。 その言葉が、あまりにも今の私の手元と重なったから。「藤崎さんは、お買い物ですか?」「はい。花瓶を買ってきました」 言ってから、少しだけ照れた。 わざわざ話すほどのことではないかもしれない。 でも、朝倉さんは興味深そうに目を細めた。「いいですね」「まだ花瓶を持っていなくて。グラスに花を挿していたら、職場の先輩に花瓶を買いなって言われて」「素敵な先輩ですね」「花瓶監査するそうです」「監査」 朝倉さんが小さく笑った。 その笑い方が少しだけ普通の人らしくて、私は肩の力が抜けた。「厳しそうですね」「たぶん厳しいです」「どんな花瓶を選んだんですか」「薄い水色の、小さいものです。カーテンの色に合いそうで」「カーテン」「はい。薄い青のカーテンをつけたんです」 そこまで話して、私は少し驚いた。 自分の部屋の話を、自然にしている。 前なら、こんなふうに自分の選んだものを人に話すことに、もっと緊張していた気がする。 でも朝倉さんは、私の話を大げさに受け止めるでもなく、軽く流すでもなく、ただ聞いてくれた。「その花瓶、似合いそうですね。その部屋に
その週の土曜日、私は花瓶を探しに出かけた。 朝から洗濯をして、部屋に掃除機をかけて、ミモザの水を替えた。 花は少し元気をなくしていたけれど、まだ黄色い小さな粒が窓辺に残っている。 透明なグラスに挿したそれを見ながら、私は佐伯さんの言葉を思い出した。 花瓶を買いな。 花瓶監査するから。 監査という言葉は少し物騒なのに、思い出すと笑ってしまう。 でも、佐伯さんの言う通りだと思った。 花を買ったのなら、それを置く場所を少し整えてもいい。 完璧な部屋を作るためではなく、今の生活に似合うものをひとつ増やすために。 私はスマホで近所の雑貨店を調べた。 駅の反対側に、小さな生活道具の店があるらしい。 口コミには、器とガラス小物が多いと書かれている。 私はバッグに財布とスマホと、小さなエコバッグを入れた。 誰かと待ち合わせているわけではない。 それでも、今日はちゃんと予定がある。 私の部屋に合う花瓶を探す日。◇◇◇◇ 駅の反対側へ歩くのは初めてだった。 いつもの書店や喫茶店とは違う方向。 細い道を抜けると、古いマンションの一階に小さな店があった。 木の看板に、控えめな文字で店名が書かれている。 中に入ると、陶器の皿やカップ、ガラスの小瓶、小さな布ものが並んでいた。 大きな店ではない。 でも、ひとつひとつの置き方が丁寧で、見るだけで少し楽しい。 私は棚の前に立ち、花瓶を探した。 丸いもの。 細長いもの。 透明なもの。 白い陶器のもの。 淡い緑色の小さな瓶。 どれも素敵で、逆に迷ってしまう。 前なら、無難なものを選んだかもしれない。 どんな部屋にも合うもの。 失敗しないもの。 誰かに変だと言われないもの。 でも今
月曜日の昼休み、私は佐伯さんにスマホの写真を見せた。 薄い青のカーテン。 窓辺のクラゲ。 グラスに挿したミモザ。 佐伯さんは画面を見て、しばらく黙った。「……いいじゃん」「本当ですか」「うん。いい」 いつもより少しだけ柔らかい声だった。「でも」「でも?」「花瓶を買いな」 予想通りの言葉に、私は笑ってしまった。「やっぱり言うと思いました」「グラスでも悪くないけど、せっかくなら花瓶があると楽しいよ」「花瓶って、どんなのがいいんでしょう」「知らない」「知らないんですか」「私も毎回適当に買ってる。でも、適当に買ったものが案外残る」 佐伯さんはアイスコーヒーを飲んだ。「高いやつじゃなくていい。小さいのでいいから、自分の部屋に合うのを探してみれば」 自分の部屋に合うもの。 その言葉だけで、少し胸が弾んだ。 カーテンを選んだ時。 テーブルと椅子を選んだ時。 料理本を選んだ時。 私は少しずつ、自分の部屋に置くものを選んできた。 そこに、花瓶が増える。 たったそれだけなのに、次の休日が少し楽しみになる。「佐伯さんは、花買いますか?」「たまにね。疲れてる時ほど買う」「疲れてる時ほど?」「そう。部屋が荒れてても、花だけあると、まあ人間の暮らしではあるなって思えるから」 佐伯さんらしい言い方に、私はまた笑った。「私、昨日それに近いこと思いました」「でしょ」「完璧な部屋になったから花を置くんじゃなくて、途中だから置いてもいいのかなって」 佐伯さんは満足そうに頷いた。「いいね。ちゃんと暮らしてる」◇◇◇◇ 昼食を食べながら、私は週末のことを少し話した。
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少
翌日の朝、私は少し寝坊した。 目を覚ますと時計は七時十分を指している。「……やば」 慌てて起き上がる。 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。 私は急いでキッチンへ向かう。 でもそこには思っていた光景がなかった。 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。